甲州大麻<北杜市>

北西部村々の農閑稼ぎ

紙漉きと大麻の生産

 現在の北杜市(旧北巨摩郡)と韮崎市にほぼ重なる逸見・武川両筋は、江戸時代を通じて商業的農業の発達が少なく、米・雑穀生産中心の自給的農業地域であった。地域を代表する特産品と呼べるものは多くないが、農閑期の冬に収入を得る手段として広く一帯で行われたものに紙漉き業がある。

甲斐国では、武田時代からの伝統を持って御用紙を漉く市川大門村・西島村(中富町)の二大産地に、両村以南に続く河内地方の村村を加えた、甲斐国南西部一帯で産する紙が市場をほぼ独占していた。対して品質・生産量ともに劣ってはいたが、北西部の村村でも小規模に紙漉き業を営んでいたことは『甲斐国志』にもみえる。特に現在の須玉町城に属する大豆生田(まみょうだ)・穴平・江草各村は「逸見旦紙」「仁田平(江草村の枝郷の名)」と称する和紙を漉き出し、この地方における中心産業となっていた。また、日野村(長坂町)・片嵐村(白州町)などでは、古紙などを利用した再生紙である「漉返し」を生産したという。

江戸中期以降、一般の需要が増大するにつれて庶民向けの紙を漉く逸見・武川両筋の紙漉き業も活発化したようだが、新規に営業を開始するのは容易ではなかった。たとえば、明和二年(1765)に、大八田村(長坂町)が新規漉き立てを願い出たが、甲斐における紙漉き業先進地である市川大門村と河内領の紙漉き諸村に営業を阻止されたことがあった。また安政二年(1855)には、片嵐村の百姓三名が新規に紙漉きを始めたところ、村で前々から紙漉きを営む五名が異議を申し立ててきた。当時村内には、この五名の縁続きで紙漉きの下請けをするものも六名おり、村内で身内以外の者が紙漉きを始めることに難色を示したのである。結局、当時の紙漉き業が先進紙漉き地を凌駕するほどの発展をみるには至らなかった。

逸見・武川両筋のうち、現在の須玉町以北都白州町の一帯は当時、気候的制約からほとんど木綿栽培のみられなかった地域でもある。これらの地域では布地原料として【大麻】を栽培し、女性の一般的な農間稼ぎは麻織りであった。大麻は単に自家用衣料として消費されるのみではなく、甲府城下などを通じて甲斐国内に流通していた。享保十七年(1732)成立の『甲州噺(こうしゅうばなし)』は甲斐国内名産品のひとつに逸見麻布をあげている。『甲斐国志』には「逸見筋諸村にて多く麻を植え之を製す、大八幡(大八田か)村殊に名あり」とみえ、逸見筋で産する麻布はこの地方の貴重な農産加工品として、貨幣獲得の一助となっていた。

特に小淵沢村周辺では、江戸後期、麻布の仲買業が盛んとなっており、文化八年(1811)には小淵沢郷仲買仲間として11名がいたという。文政十年(1827)版の買い物案内書『諸国道中商人鑑』によれば、甲府城下柳町で代々荒物屋を営む和泉屋平右衛門は「国産麻布類」も商っており、逸見筋産の麻布はこのような店から国内各地へと流通したのであろう。

郷土出版社/韮崎・巨摩の歴史より  文・宮澤富美恵

 「甲府諸商人職人仲間」元治元年(1864年)によると、当時の甲府には4件の麻屋と、2件の麻問屋が存在している。

甲府諸商人職人仲間

「甲府諸商人職人仲間」 元治元年(1864年)

甲州麻問屋

 「諸国道中商人鑑」より和泉屋平右エ門

では、いつから?

上記は、現在の北杜市(旧北巨摩郡)と韮崎市にほぼ重なる地方の18~19世紀の様子を伝えたものですが、この地域では一体いつから大麻を加工する技術を継承してきたのでしょうか?

大麻を祀る神様【天日鷲之命】を祖神とする阿波忌部族が造った集落があったとされる証拠があれば、その地では8世紀頃には既に相当な技術があったと考えられます。

そして、その証拠となる阿波忌部由来の神社がありました。

韮崎市宮久保にある【倭文神社】です。

倭文神社鳥居

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祭神は、天羽槌雄命(あめのはづちおのみこと)天棚機姫命(あまのたなばたひめのみこと)

倭文神社説明

麻績みや機織り関係の方は一度参拝されてはいかがでしょうか

山梨県神社庁/倭文神社 

この地域には、間違いなく太古の昔より大麻文化が浸透していたものと考えられます。

祭神が、天羽槌雄命、天棚機姫命といった機織りの神様であり、倭文という名前から、絹と大麻を織り込んだ【倭文織り】が存在していた地域なのかも知れません。

是非ともこの文化をこの地域で再興して欲しいものです。

 

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